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江南同窓会会報58号

江南同窓会会報 第58号を平成23年2月15日に発行いたしました。
母校が本年創立90周年を迎えること、総会に先立ち講演会を開催したことなど、盛りだくさんの4面構成に加え、創立90周年記念募金にご協力いただいた皆様のご芳名一覧を差し込みました。
   1面:平成22年度総会、会長挨拶
   2面:羽生校長挨拶、恩師からの便り(小泉先生、松井先生、村瀬先生)、第5回青春かながわ校歌祭
   3面:OBインタビュー(野地さん 高31)、「助っ人バンク」へ協力のお願い、現役生の活躍
   4面:沖縄の地より(上原(照屋)さん 高女20)、会員だより母校創立90周年記念募金へのご協力のお願い
   差込:母校創立90周年記念募金ご芳名一覧

紙面をPDFイメージでご覧いただけます ⇒ 1面  2面  3面  4面

「名実況の舞台裏、語る」              NHKアナウンサー 野地 俊二さん(高31回)
                                         インタビュアー 美濃本小夜子(高18回)、沼田 繁(高48回)
取材に応じる野地さん
日本を代表するスポーツアナウンサーとしてご活躍され、記憶に新しい昨年のサッカーW杯南アフリカ大会でも、実況をされたNHKアナウンサーの野地俊二さんにお話を伺いました。

―W杯カメルーン戦後、「薄氷を踏む勝利でした。しかし最後まで緩みのない、いい試合でした」という名台詞は事前に用意したのですか。
 
その時の言葉です。昔は放送前にコメントを書く人もいましたが、今は文語的でセンチメンタルな放送は求められません。スポーツ放送は進化しているので、突き詰めて勝負に入っていったたほうがいいんです。

―大半の国民が中継を観ました。緊張したのでは?
 
重圧はあまり感じない性質(笑)。「放送席では銃を突きつけられているような気がする」と辞めていく方もいましたが、それを感じ出したらきりがありません。スポーツアナウンサーはサッカーでいうと、FWタイプが向いてます。

―岡田ジャパンは下馬評を覆しての劇的勝利でした
 
岡田さんはNHKの元解説者で、一緒に放送していた仲間。カメルーン戦に負けたら終わりだろうというのは、選手もメディアもわかっていました。岡田さんも「相手の方が絶対強いけど、一発勝負で10回に1回勝てるかどうかの1回があればいいんでしょ」と開き直っていました。

―取材では、そんな本音も聞けるんですね
 
取材は、ぶら下がりとか囲みというのがあります。例えば野球の場合、試合前のベンチで、皆で監督を囲んで話を聞くのですが、そんな時に本音を言うわけない。本当に取材がしたいのなら、囲みが終わってから話してもらう関係を普段から作ることです。

―取材も大切な仕事ですね
 
明日放送する時、前日とか前々日にいろんな人に話を聞きます。選手がどんな技術を持ち、どんなコンディションで、どんなチーム戦術なのか。テクニック、フィジカル、タクティクスの3
つを取材します。さらに、メンタル面が充実していなければその3つが機能しないので、モチベーションの取材も欠かせません。

―それを実況で活かすわけですね
 
それをそのまま話すわけではありません。実況というのは取材した情報が、今日の試合でどう反映されているのかを見極めて話すものなのです。何かしらの思考が働いて選手はプレーをしている。そこを読み込んで、解説者に喋ってもらいながらやるわけです。それができない人は唐突に選手の資料を読みだしちゃう。

―取材量は膨大でしょう
 
放送では、100取材しても10も話せません。我々が知っていることを全部しゃべれば、週刊誌は大変な騒ぎになっちゃいますし(笑)。放送席に座る前に、その種目に対しての知識の引き出しを蓄積しておかないと、仕事にはなりません。

―学生の頃から、アナウンサー志望だったんですか

マスコミ志望でしたけど、実はCMや映画、ドラマといった仕事をしたかったんです。NHKに入社する時にアナウンサーになれっていわれて、「嫌です。ドラマ部にしてください」って(笑)。スポーツを希望したのは基本的に人の書いたものを読むのが嫌でしたから。自分で取材をして、原稿を書いて、読むという方がやりがいは大きいです。

―今までの仕事で一番、印象に残ったことは?
 
練習場でタイガーウッズを初めて見た時です。凄すぎて、ゴルフをするのをやめようと思いました(笑)。練習でバンカーから20ヤード先のカップに、続けて3発入れちゃったりするんです。試合で凄いショットをすると、「奇跡の劇的バーディ」なんて言っているけれども、全然奇跡じゃない。

―野地さんは、サッカーとゴルフの現場中継デスクという役職ですが
 
今の仕事の半分以上は若手の人材育成です。自分より優秀なアナウンサーを育てることが僕の評価になる。

―今の若者はどうですか
 
最近の若い人はみんな優秀なのですが、コミュニケーション能力が低く、普段人と話すのが苦手な人が多いです。僕が若い頃は「巨人・大鵬・卵焼き」の時代で、王さんや長嶋さんを相手に仕事をしなければいけない。アナウンサーは若い頃から、年上やその分野を極めた人と会話をしながら、まともな話をしなければいけないのですが。

実況席での様子
―母校の生徒にも一言、お願いします
 
自分の可能性を決めつけないことです。僕も子供の頃にジャック・ニクラウスやアーノルド・パーマーをテレビで見ていて、凄いなと思っていました。でも、大人になって、まさかその人の放送を、アメリカに行ってやるなんて想像しないじゃないですか。なんでもありです。一懸懸命やりたいことをやってもらえれば。

―高校時代の思い出は?
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高校2年の時、体育の杉山豊先生が江南に着任されて、サッカー部を創部されました。僕はその1期生です。サッカーばかりで勉強もせず、教科書をロッカーに入れたまま学校に通っていました(笑)。土曜日の部活の前に、西門を出て目の前にハンバーガー屋があって、もう少し先には五十番という中華料理屋があって、良く行きました。美味しかった。でも、先生には、「高校生が一丁前に外食するんじゃない」ってよく怒られていましたね。

―アナウンサーとして今後の仕事の抱負は?
 
若いうちは自分が認められなければならないといけないんで、一生懸命グレードアップしていこうという気持ちが強かった。でも、私みたいに20年以上にもなると、あんまりそういう気持ちはありません。いかにサービスして、視聴者に喜んでいただけるか。競技場で観戦するよりも、テレビで観たほうが面白いといわれるようになるのが、何よりも嬉しいですね。

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北から南から  「沖縄の地より」              上原(照屋) 初さん(高女20回)
 今回、同窓会名簿(平成22年度版)を送ってもらいました。
高女20回生(四年制)昭和二十年三月卒のページをめくると、旧姓の照屋初≠みつけて感慨深い思いに浸りました。
 そして65年前の古いアルバムを引張り出しました。髪を三つ編みにして、戦時中の制服(へちまえり)を着た卒業写真のみんなの顔々…。 
 私は、沖縄県からの転校生です。
 思いおこせば、昭和十六年四月、沖縄第一高等女学校入学。その年の十二月八日に太平洋戦争がはじまり戦時色が色濃くなり、私達女学生も飛行場での暗渠掘、陣地構築作業へと動員されました。その後(四年生の時)の八月、九月頃から『老幼婦女子』『学童集団疎開』が始まり疎開をすすめられました。 
 私も、九月十五日に第二学童疎開の寮母、弟は学童として那覇港より出港しました。
鹿児島へ上陸、疎開先の熊本県浦湯・寿旅館へたどり着いたのは二週間後の九月三十日になっていました。 
 そこでの生活は厳しく、寮母の身では学校には行けず『あと六ヶ月で学校を卒業できるのにどうしようか』と、平塚で町工場を経営していた安慶名豊三さん(従姉の御主人)に手紙を出したところ、迎えに行くとの電報をもらい平塚に行くことになりました。会社の名前は〈平塚光学精器製作所〉です。戦時中でさらに家族も多いのにもかかわらず我が子のように面倒を見てもらいました。 

昭和20年3月28日 神奈川県立平塚高等女学校卒業記念
中列左より4番目が上原(照屋)初さん

 また、十二月にはその尽力で、県立平塚高等女学校へ編入することができました。時節柄、女学校では勉強らしいことはなく、月二回の登校で、私達四年生は海軍省相模工廠へ動員されそれぞれの部署につく毎日でした。そこでの作業は防毒マスク作りの仕上げだったと覚えています。四ヶ月の動員作業の中、学芸会らしきものがあったのを思い出します。 
 昭和二十年三月二十八日に卒業証書をいただき、五年生には進級しませんでした。 
 その後、二十一年十二月まで平塚でお世話になり、沖縄の親元に帰りました。戦後65年たっても、あの頃のことが走馬灯のように思い出されます。 
 現在私が住む与那原は、戦前、軽便鉄道が走り港町として栄えました。が、沖縄戦で壊滅状態になりました。そのにぎやかだった街並みを知ってもらおうと、町綱曵博物館が地図を作成しました。 
仲良し4人組
 博物館長さんの要請に、元気なうちにできることをと思い、そのお手伝いをさせていただきました。 
 一九四四年に米軍が撮影した航空写真を基準にし、
当時の大里村字与那原の一区から十区まで約五百軒の、屋号や店の名前を思い出し一年かけて作りました。 
 今、平和のありがたさをそして、生きている喜びを噛みしめております。


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