平塚江南校舎 江南同窓会

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江南同窓会会報63号

江南同窓会会報 第63号を平成28年2月15日に発行いたしました。
平成27年度総会では前年総会で決議された「新校舎建設に向けての運動、取り組みの開始」を受けて、「新校舎検討委員会」を発足させ、平塚市・地元企業との面談、情報収集を行いながら会合を持ち、学校・PTAと検討し、3月27日に神奈川県教育委員会に要望書を提出。今後は、教育委員会と相談しながら進めていきたいとの報告がありました。

   1面:平成27年度総会、会長挨拶、『まなびや基金』協力依頼、平成28年度総会お知らせ、硬軟
   2面:稲本隆校長挨拶、恩師からの便り(松永幸夫先生、小澤宏高先生)、第10回青春かながわ校歌祭
   3面:OBインタビュー(久保伸太郎さん 高15回)、『助っ人バンク』協力のお願い、現役生の活躍
   4面:『異色の織り姫 逃げずにリングへ』(松本浩代さん 高56回)、会員だより、第6回シニアゴルフコンペ、
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紙面をPDFイメージでご覧いただけます ⇒ 1面  2面  3面  4面

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「世界の中の日本」思う    読売新聞社相談役、日本テレビ放送網顧問
                                    久保伸太郎(くぼしんたろう)(高15回)

                     インタビュアー 渡辺大三(高11回)、美濃本小夜子(高18回)、沼田 繁(高48回)
読売新聞東京本社で取材に応じる久保さん
  久保伸太郎さんは慶応大学卒業後、1968年に読売新聞社に入社。東京本社やロンドン支局、ワシントン支局で経済記者として活躍し、論説委員や経済部長を務めたあと、96年に日本テレビ放送網に移り、報道局次長や営業局長を経て、2005年〜09年に社長を務めました。現在は相談役や顧問の立場で、会社を見守っています。
 
――なぜ、読売新聞に入社されたのですか。
 
 「大学で学生新聞を作っていたこともあり、記者を意識しました。高校の同級生で先にNHKに入社した橘川徹治君から、芥川賞作家の日野啓三さんという記者が読売の外報部にいて、『ベトナム報道』という名著があると教わりました。こんな人が活躍しているんだと感銘を受けたのも、きっかけになりました」
 
――入社後は経済部の記者になりました。
 
 「読売新聞の記者は最初の5年間、地方支局に勤務します。私は青森支局でスタート。1973年に東京本社経済部の記者となり、まず、日本銀行の記者クラブに配属され、金融全般を担当しました。キャリアを通じて大蔵省や経済企画庁などの官庁取材が長く、日本の経済政策や予算編成といったマクロ経済を扱ってきました。ワシントン駐在時代はレーガン政権全盛期で、日米貿易摩擦やプラザ合意など歴史的な課題に直面しました」
 
――ジャーナリストの持つべき意識として、大切なことはなんでしょうか。
 
 「真実を追求し、どう伝えるかということです。日本テレビで『NNNドキュメント』という番組の制作部門を任された時がありました。BS日テレ『深層NEWS』のキャスター、小西美穂さんが記者時代、後に大阪市助役になった弁護士の大平光代さんを発掘しました。大平さんは中卒で、暴力団の内縁の妻だった時期も。そこから独学で弁護士になり、非行少年らを救う歩みを追ったドキュメントでした。全身の刺青を見せた映像も衝撃的でした。ジャーナリストの役割とは日々のニュースを追って、誰かの汚職をスクープするだけではありません」
 
――報道という仕事をどのように考えていますか。
 
 「デジタル化やインターネットの登場で、メディアの世界は今、グーテンベルクが15世紀に活版印刷を発明して以来の革命が起こっていると言われています。
 例えば、自動車が暴走して人を死亡させるような事故が起こると、防犯カメラや通行人の撮影した画像がすぐに出ます。誰もが簡単に投稿し、共有できる時代。報道の在り方を語るのは実に難しい。敢えて言うならば、犠牲者はどんな方だったのか、加害者は持病を持っていなかったのか、車の構造に問題はなかったのかなどと、奥行きを探っていくのが報道だと思います。
 様々な談話や映像を集めるのが簡単な時代で、それを取材だと言うのはいかがなものか。真相に迫ることや何がニュースなのかを見極める訓練は難しいものですが、必要だと感じます」
 
――ニュースの見極めは難しいでしょうね。
 
 「青森支局で警察回りを始めた新人の頃、男性3人組が特別天然記念物のカモシカを捕まえ、逮捕された事件がありました。毛皮が目的なのだろうと思っていたら、食べるためでもあったと聞いて仰天した。よく聞いてみると、カモシカは偶蹄目ウシ科の分類で鹿ではなく牛の仲間、肉がとても美味しいんだとのこと。
 会社に戻って意気揚々と先輩デスクに伝えると、『そんな話はしょっちゅうあるから、ニュースでもなんでもない』と一蹴されてしまった。すると、その事件が翌朝の毎日新聞の社会面トップで扱われ、東京本社からの電話でデスクがひどく怒られました。デスクは私に平謝り(笑)何でも知っているではなく、何も知らないところから取材に入るのが記者の出発点です。
 このエピソードは、記者を志望する学生によく話します。問題の在りかと面白さが分からない学生には、記者は向かないだろうと伝えています」
 
―― 高校時代に印象に残ったことはありますか。
 
 「当時の直井要校長から返信いただいた年賀状に、『Heaven helps those who help themselves』(天は自ら助くる者を助く)と一筆だけありました。これは英国のサミュエル・スマイルズの名著『自助論』の中の格言で、英国首相になったマーガレット・サッチャーも愛読したそうです。努力するものは報われる。高校時代の迷える、悩める私に示してくれた回答だったのだろうと、今では思います」

――母校の後輩にどんなことを伝えたいですか。

 「世界の中の日本、という言葉です。排他的な孤立主義に陥らないようにしないといけません。経済の相互依存は今後、ますます高まります。経済記者になりたての頃、当時の佐々木直日銀総裁が退任会見で今の思いを一言求められ、『世界の中の日本です』とおっしゃった。様々な国際金融会議で世界のセントラルバンカーと交流してきて、日本は世界とともにあり門戸を開くべきと痛感されたのだと思います。
 中学、高校生の約6割が英語を嫌いだとか。私も英米に長く駐在し、英語が得意と思われがちですが、本当に苦労しました。英語は今や世界の共通語。ぜひ身につけて下さい。世界中でビジネスの交渉をする日本人の姿を見てきましたが、実に
立派。文法や発音はどうあれ、必死で商談をまとめていました。
 国内人口は2050年には今から3000万人減り、9700万人に、そのまま進めば3000年には人口0になる計算です。そこで移民にどう対応するかは、その是非を含め、在校生の皆さんにとって将来避けられないテーマになります。異民族との上手な共存は、日本ではまだまだ育っていません。皆さんには《世界の中の日本》を忘れないでいただきたいです」

北から南から  異色の織り姫 逃げずにリングへ
                                          松本浩代(まつもとひろよ)さん(高56回)
 皆さん初めまして!「七夕織り姫」、「女子プロレスラー」。両極端にも感じるジャンルですが、リングキャリア10年が経ち、生まれ育った平塚に何かを残し、恩返ししたいという思いで織り姫に立候補しました。

織り姫に選ばれる(中央)
 平成27年度の第65回湘南ひらつか織り姫のオーディションは、書類選考、面接、インターネット投票と厳粛な雰囲気、かつ綺麗な女性ばかりの中で行われ、とても緊張したのを覚えています。その中で選出されたことはもちろん、祖母がことのほか喜んでくれたのがまた嬉しかったです。

 私のキャッチコピーは破壊する女。かつての織り姫のイメージをキャッチコピー通り破壊して、たくさんの方に、七夕やローズフェスティバル(平塚は全国有数のバラ生産地)などの行事に参加し、平塚の良さやプロレスの楽しさを伝えられる活動をして行きたいと思っています。

 さて、江南高校では柔道部でした。マネジャーに憧れて入部したものの、わずか一週間で選手に転向していました。一年の夏には初段を取り、夏と冬には他校との合同合宿に参加するなど、高校生活は柔道一色。授業の中休みに菓子パン、お弁当、部活の後にコンビニでカップラーメン、帰宅して夕飯、夜食にポテトチップスと、いま考えれば恐ろしい食生活でした。

 試合成績は、県大会に行くと全く勝つことが出来ません。緊張して練習では勝てていた相手に負けてしまうのです。その過度な緊張感を克服したのは引退後。時すでに遅し、です(笑)。
バックドロップを決める筆者

 でもいまの私のプロレスの基盤となっているのは、柔道部時代の「心・技・体」に間違いありません。

 女子プロレスラーの年齢は15歳位から50歳以上と幅広く、勝利するために世代も国籍をも超えて殴ったり蹴ったり投げたり…。これだけ聞くととても物騒な世界です。普段の活動は、年間130前後に及ぶ試合です。プロレスの聖地といわれる後楽園ホールを始め北海道から沖縄まで全国を回りアメリカやフランス、インドネシア等、海外遠征も増えてきました。

 私がプロレスに出会ったのは19歳でした。人間関係や就職活動で悩み落ち込んでいた時に、友達に連れられ試合を初観戦。我慢することなくありのままの感情をさらけ出し、相手を殴る姿、そして逃げずに殴られる姿は衝撃でした。
勝利を喜ぶ

 逃げようと思えば逃げられるはずなのに、相手に立ち向かう姿からは意地と覚悟を感じ、私が人として理想とするところでした。

 「逃げない、諦めない」。単純なことがこんなにも人に元気や勇気を与え、笑顔を生み出せる。それでもリングに上がると辛いことだらけ。その時に助けてくれるのはファンの応援です。

 プロレスラーから生まれるパワー、観ている人から生まれるパワー、たくさんのエネルギーを生み出すこの場所は、パワースポットだと思いました。私はそのパワースポットをたくさんの人とたくさんの場所で作っていきたい。もちろん平塚でも。

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